昭和から平成 低迷から飛躍へ

更新日:2018年10月08日

「藤枝詣で」という言葉があった。高校の強豪校があり、市民グラウンドといった施設が整った藤枝の地に多くのチーム、選手が集ってきたからである。藤枝はサッカー先進地であり、サッカー関係者の目標の地であった。しかし、昭和50年代に入ると、静岡県内でもサッカーの指導体制が整い、藤枝は追われる立場になる。

県内では少年サッカーの基礎作りから始め、高校サッカーの強化まで成し遂げた清水勢の動きが顕著であった。実際、昭和50年代以降、藤枝は高校サッカーでは清水、静岡勢に圧倒され、県大会では優勝が難しくなっていた。そのような状況で、中西部地区の優秀選手が中学校卒業後、地元ではなく清水、静岡へ進学する者も少なくなかった。危機感を感じたこの地域の指導者が優秀選手の一貫指導を考えトレセンを開校したのが昭和59年(1984)であった。

昭和59年度の第63回全国高校選手権では、藤枝東高が準決勝で島原商(長崎)に敗れたものの3位という成績を残し、全国の舞台で久々に脚光を浴びた。この時活躍した中山雅史はヤマハ発動機からジュビロ磐田の中心選手となり、日本代表にも選出、その後ワールドカップ等で大活躍したことは誰の記憶にも残っている。

【写真:第63回全国高校選手権第3位の藤枝東高 (昭和59年度)】

 

新たなる萌芽 女子チームの誕生

昭和53 年(1978)、藤枝市初の女子チームが誕生した。藤枝だけでなく、焼津、島田、岡部、金谷のサッカー好きが加わった藤枝姉妹FCである。婦人体操教室で指導をしていた中村玲子が主婦の足腰の弱さが気になったことがきっかけだった。

また、平成元年(1989)には、県下初の女子サッカー部が高洲中に誕生。ふれあいサッカーカーニバルに初の公式試合として出場したが、60 歳以上のシニアチームを相手に0-9と敗退。近年は部員集めに苦労しながらも、県内中学きっての老舗女子サッカー部として活動を継続している。

【写真:発足当初の藤枝姉妹FC (昭和53年)】