昭和45年度 小・中・高 三冠

更新日:2018年10月08日

サッカー少年の像( 藤枝小学校)

藤枝小学校の校門を入って右手に、二人の子どもが足でボールを取り合っている像がある。像の台座には山口森三市長が記した「サッカー少年団発祥の地」の文字が刻まれている。昭和48年(1973)1月、少年団1期生が成人したことを記念して作られた。作者は藤枝東高にある「蹴上王者」の像と同じく二紀会同人であった井出芳志。

サッカーが盛んな土地で育った子どもたちがサッカーに興味を持たないはずはない。国体をはじめ、数々の大会の会場となった上、志太中の伝統を受け継ぎさらに強さを増した藤枝東高の近くに位置する藤枝、西益津地区に、この地域で初めてのサッカースポーツ少年団が結成されたことは必然と言ってもよい。少年団として正式に認定されたのは昭和39年度のことであるが、38年ころから、熱心な指導者のもと希望者を募り、保護者の承諾を得て練習を開始し少年団結成の基礎固めがなされた。

【写真:サッカー少年の像(藤枝小学校)】

 

その後、サッカー少年団は、昭和41年に相良町、42年に岡部町、吉田町、榛原町に、44年に島田市にと、中西部の各市町に次々と結成され今日に至っている。44年には10チームが参加して第1回静岡県少年サッカー大会が藤枝で開催され、藤枝少年団が優勝を飾った。藤枝の少年団活動の特色の一つに、やはり古くからサッカーがさかんな浦和市(現 さいたま市浦和区)と交流が行われていたことが挙げられる。両地区の交流は浦和のチームを藤枝に招いた43年に始まり、毎年交互に招待しあった。

さて、昭和22年(1947)に新制中学校が誕生し、26年には早くもサッカーの公式大会として、第1回志太地区大会が開催された。しかし当時はまだ正式なサッカー部を持つ中学校は、藤枝、葉梨、焼津、焼津豊田など、数校にすぎなかった。この大会の優勝校は西益津であったが、正式なサッカー部は存在しなかった。正式な部の無い学校は、先に大会が終了していた他の部活動から選手を集めチームを結成した。志太地区大会、中部大会、県大会では、西益津と藤枝が圧倒的な強さを誇って、毎年のようにどちらかが優勝し、全国大会が始まってからも両校の活躍は続いた。

昭和45年度は、第4回全国サッカースポーツ少年団大会で全藤枝が優勝、第1回全国中学校サッカー大会で西益津が優勝、さらに全国高校サッカー選手権大会で藤枝東高が4回目の優勝と、見事、小・中・高三冠王に輝き、藤枝のサッカーにおいて最高の年となった。

昭和46年1月31日には記念式典を開催、日本サッカー協会の岡野俊一郎が記念公演を行った。

 

中国から招待状

中国高級中学との友好試合

昭和47年(1972)、日本と中国の国交が回復した。50 年7月、日中文化交流協会から「日本の高校チームと中国高級中学の友好試合を行って、日中の関係を深めたい」という趣旨の打診があった。日本サッカー協会は派遣校を理事会にはかり、紆余曲折がありながらも、藤枝東高に決定。中華全国体育総会から正式に招待状が届く。これまでの実績が認められた上でのことであった。

団長は、県サッカー協会会長でもあり藤枝市長でもあった山口森三。副団長に校長の渡辺福太郎と鈴木一夫(藤枝東高サッカー部後援会長)、長池 実監督と選手17名が参加した。北京、旅大、天津、上海の四大都市を7月15 日から29 日までの日程で訪問し、各地で親善試合を行った。驚くような観客の多さや経験したことのない暑さなどに戸惑いながらも、日本の高校を代表して訪中した藤枝東高は、4 試合を行い2勝1分け1敗と勝ち越した。

【写真(右):試合に臨む藤枝東高イレブン】