藤枝市民グラウンド ―県内初の全面天然芝のサッカー専用競技場の建設―

更新日:2018年10月07日

西益津村長、藤枝町長を経て初代藤枝市長となった山口森三は、県内初のサッカー専用の競技場の建設を決断するなど、首長として、種から発芽した苗を育む土壌を整えた。山口がどのような思いでサッカー専用競技場を作ったか、山口の著書を次に引用する。

 

昭和36年、クラマー氏が東高グランドへ指導に来た時、雨あがりの凹凸グランドを見て、「これではサッカーはできない。何とかしてくれ」と言われたが、この時から何としても芝生のグランドを作りたいというのが、私の執念であった。草薙の球技場は、芝が、四隅に少し残っている程度で、芝のサッカー場とはとても言えないし、サッカー県として、サッカーのまちとして、緑の芝のサッカー場としても必要と考えた。

たまたま昭和38年欧米視察の際、立ち寄った英国の南海岸沿いのポーツマス市で、いたる所に芝生の広場があり、そこにはサッカーのゴールがあり、ラグビーのポールが立っている。グランドは20位ありますと聞いて驚いてしまった。藤枝へ帰ったら芝のグランドを作ろうと決心を新たにした。

昭和39年は東京オリンピックの年であり、サッカーがブームになりつつある年であった。

議会の賛成を得て土地の選定にかかった処、各地に候補地が表れて決定には苦労したが、現在地に野球場とともに用地を確保し得てほっとした。

しかし造成から施設の経費の捻出には苦労したが、昭和35年の災害以来自衛隊工事と親しくなり、市も自衛官募集に協力した等の関係で、静岡の地方連絡部、市ヶ谷の第一師団司令部に出むき了承を得て、昭和41年正月早々より、古河から工事部隊が来て、二つの山を崩し造成することができた。

その後逐次スタンドもでき、草薙球技場、清水総合グラウンドの完成までは県内で唯一の芝生のサッカー場として、重要なゲームは殆んどこのサッカー場が使われた。

『回想あれこれ』より

 

土地造成に自衛隊の協力を経て、昭和42年に竣工、45年にスタンドが整備された藤枝市民グラウンドでは、多くの選手を迎え、数え切れないほどの試合が行われた。

スタンドが整備されて以後、45年全日本社会人、47年から51年までの5年連続して天皇杯開催。50年から関東・関西大学対抗戦を4回、52 年からは総理大臣杯全日本大学サッカーを5回開催するなど、この地域から大学に進学した選手の試合を地元で見られる機会もあった。その他、全日本ジュニアサッカー対抗戦や招待サッカーなど、日本リーグのトップ選手が出場する試合・大会を誘致開催するに至っている。昭和46年5月2日に開催した日本リーグ、日立 対 新日鉄の試合では観客8千人の記録が残っている。平成3年8月17日に行われたJSLカップでは、地元中央防犯とラモス、三浦知良などを擁した読売クラブが激突、中央防犯が先制するも、6点を返され力の差を見せ付けられた。この試合でも3500人を集めた。その後も日本リーグ2部に所属した藤枝市役所、日本リーグや旧JFLに所属した中央防犯などのホームとして有料試合が行われた。

今では築40年以上経ち、老朽化が目立ってきている。平成14年(2002)に完成した総合運動公園サッカー場があり、市内高校のグラウンドも人工芝が多くなってきている。しかし、ヨーロッパのサッカー環境を見て、藤枝もそのようにしたいと強く願った山口の信念の込められた市民グラウンドは、今も藤枝のサッカーを支えている。