東京・メキシコオリンピックへ

更新日:2018年10月07日

敗戦後の昭和22年(1947)に日本蹴球協会が再結成された。日本サッカーの国際舞台復帰は、昭和25年、リオデジャネイロでのFIFA総会で日本とドイツの復帰が可決されたことに始まる。この年はブラジルで第4回ワールドカップが開催されたが、当然のことながら日本はまだ予選参加さえしていない。

このころ松永三兄弟の松永信夫は日本代表に選出されていた。昭和26年の第1回アジア大会(インドのニューデリーで開催)の代表となっていたが、往路飛行機がマニラで給油するにあたり、戦争中フィリピンにいたことが災いしてフィリピン政府から入国のビザが降りず、荷物だけが空しくニューデリーに向かった。この時弟の碩せきも代表入りしており、アフガニスタン戦などに出場している。

オリンピックへの挑戦も再開され、日本は昭和31年(1956)のメルボルン大会で戦後初の出場を果たす。本県からは大村和一郎(田辺製薬、静岡高出)が参加した。

 

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メキシコオリンピックのトリオ (左から山口・富沢・杉山) 静岡新聞昭和43年1月5日

 

次いで臨んだのは、昭和39年(1964)の東京大会。静岡県からは3人の選手が選出された。清水東高出身で現在は藤枝市在住の杉山隆一、藤枝東高を卒業し八幡製鉄に所属していた富沢清司、同じく藤枝東高出身で中央大学2年生の山口芳忠である。デットマール・クラマーの指導などの強化策により、アルゼンチンを逆転で破った日本はベスト8まで駒を進めることができた。代表の活躍で日本中に空前のサッカーブームが巻き起こり、その次の昭和43年(1968)メキシコオリンピックにも大きな期待がかかった。期待に反せず、日本は開催国メキシコを3位決定戦で破り銅メダルを獲得した。サッカー競技ではアジア初のメダルであった。静岡県出身の3選手はメキシコ大会でも選出されており、日本は銅メダルと同時にフェアプレー賞も受賞した。