名実ともにサッカーのまちへ

更新日:2018年10月08日

昭和29年(1954)1月に藤枝町と西益津村が合併し藤枝町となり、3月に藤枝町、青島町、葉梨村、高洲村、大洲村、稲葉村の二町四村が合併し市制が施行された。さらに昭和30年に瀬戸谷村が、32年に広幡村が編入され市域は広がり、平成21年からは岡部町が加わって現在の藤枝市となっている。

昭和30年代、日本は高度経済成長の時代に突入する。昭和31年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記される。藤枝においても昭和33年の国道1号の開通により、交通の利便性をもとに昭和34年工場設置奨励条例が定められ、多くの工場の誘致に成功し、従来の農業を中心としたまちから大きく変貌していく。

この時代、藤枝を「サッカーのまち」と、全国的に強く印象付けたのは、何といっても昭和32年10 月、第12回静岡国体の蹴球会場となったことであろう。天皇杯大会の成功など、十分な準備を経て蹴球会場誘致にこぎつけた。昭和29年に市制施行を実現した藤枝にとって、どうしても誘致したい種目であった。

国民体育大会は、太平洋戦争後の昭和21年(1946)、戦禍をまぬがれた京都で開催されたのが最初である。第12回静岡国体での開催県としての盛り上がりは、平成15年(2003)の二巡目以上のものであったであろう。昭和30年6月28日号の『広報ふじえだ』には施設と計画の大要とともに、「蹴球の歴史のあらましとその競技方法」として1面に図入りで大きく紹介している。32年の9月15日号、10月15日号、11月15日号は国体の記事一色である。

昭和天皇、皇后が御成りになった藤枝東高をメイン会場に、藤枝農業高(現 藤枝北高)、藤枝中、青島中、西益津中、高洲中で試合が行われた。メインとなった藤枝東高では新たに850坪を拡張、両陛下をお迎えする貴賓席を中心にしたスタンド改修も行われた。藤枝東高に、高校グラウンドには珍しいスタンドがあるのはこの時整備されたためである。藤枝東高会場は1万5000人が収容できることになったと当時の静岡新聞は伝えている。展覧試合は藤枝東高と山城高の二回戦で、決勝戦には三笠宮妃殿下が御成りになった。

蹴球競技は一般の部、教員の部、高校の部があり、一般の部として志太クラブが、高校の部として藤枝東高が出場し、ともに優勝を飾った。大会にはこの地に蹴球を取り入れた功労者である志太中初代校長錦織兵三郎を招待した。錦織元校長が来藤した際、「こんなになることを考えて蹴球を採り入れたわけではなかったが」と、喜ぶというより驚きの態であった。高校の部は現在、少年の部となっている。昭和45年から県選抜となったため、県勢の単独チームとしての優勝は藤枝東高の2回と清水東高の1回のみである。

さらに昭和34年(1959)8月、藤枝東高グラウンドで第2回アジアユースサッカー派遣全日本高校選手選抜大会が行われた。アジアの若者たちの交流とサッカーレベル向上のために始まったのがアジアユース大会である。この本大会へ派遣させるための選抜会はその後も第5回、第6回が藤枝で開催された。これら選抜会のパンフレットを開いてみると、第2回大会で松本育夫、杉山隆一、第5回大会で釜本邦茂、水口洋次などなど…。第6回大会では、島原商業や国見高監督として有名な小嶺忠敏といった名前も見られる。のちに日本代表や、日本リーグ、さらに指導者として活躍する人たちも、高校生の時に藤枝に来ていた。藤枝とはそういう「サッカーのまち」なのである。もちろん、選抜された選手の数は藤枝が群を抜いて多かったことも付け加えておく。

その後も実業団の大会や、大学選手権など、数多くが藤枝を会場とし、合宿なども盛んに行われた。昭和45年(1970)春には、高校サッカーフェスティバルが始まる。現在日本の各地で春休みの時期に交流戦やカップ戦を行う、いわゆるフェスティバルは藤枝が発祥の地といわれている。藤枝東高監督であった長池実の発案により、日本のほぼ中央にある静岡県の藤枝の地で、日本各地の高校サッカーチームが一堂に会し、トーナメントでもリーグ戦でもなく、できるだけ多くの試合ができる交流試合形式の場を設定し、それをフェスティバルと名付けた。選手の強化だけでなく指導者や審判の技術向上にも役立たせたいという長池の考えに同調した多くの指導者が、強豪サッカー部を率い藤枝に集まった。藤枝駅前にあったスーパーのチラシの裏にフェスティバルの対戦表が印刷されていた。こんな風に藤枝のまちには、いたるところにさりげなくサッカーを盛り上げる風土があった。サッカーが文化として定着していた証であろう。

 

日本のサッカーは俺たちで

第12回国民体育大会 蹴球のチラシ

戦後、サッカーの混迷期に、『日本のサッカーは俺たちで』、とわずか15,000の人口の藤枝町が、多くの財政負担と労力奉仕を物ともせず、昭和27年に天皇杯大会を開いて以来、市政施行後も何回かの全国大会、そして全市を挙げてのサッカー熱は、戦後のサッカーのまち藤枝を築きあげた。

蹴球会場は当然藤枝と思っていたのに、初代の協会長平野八郎氏、ベルリンオリンピックの日本代表堀江、加茂兄弟の生地浜松市が、急に名乗りを挙げ誘致運動が始まった。昭和27年以来多くの犠牲を払って全国大会を開催し、神奈川国体、兵庫国体も見学し準備万端怠りなしの藤枝にとっては、これは大変と、佐藤体協会長を先頭に、バスを借り切って大挙県庁に押し掛けて、斎藤知事に陳情し県関係者をびっくりさせる一幕もあった。

最近では、国体会場になると、陸上競技場と芝生のサッカー場を、小さな町でも
整備し得る程に豊かになった。静岡国体の頃は、国体が年々華美になり、地方財政に悪影響ありというので、県出身の太田正孝氏が自治省長官で緊縮国体をスローガンに、現状の施設でやれということであった。それでも会場となった藤枝東高、北高、藤中、青中、高中ではグランドの拡張や、施設の補修ができたことは幸いであった。

山口森三 初代藤枝市長 「回想あれこれ」より

 

静岡国体のお土産

サッカーエース最中、サッカーあめの写真

今では全国的にサッカーどころが多くなり、各地でサッカーに因んだお菓子などの
土産品が売られるようになったが、藤枝ほど古くからサッカーを土産品として商品化してきたところは他にないのではなかろうか。

藤枝市民なら誰でも知っているサッカーボール型の最もなか中。サッカー最中と呼ばれているが、正式には商標の関係で「サッカーエース最中」の名前で売られている。このお菓子は一巡目の昭和32 年の静岡国体に藤枝が会場となったことを記念して、「みかん最中」とともに作られるようになったもので、50 年以上の歴史のある銘菓である。レトロな箱や包装紙は当時と変わらない。今では日本の各地で類似品が売られている。以前は市内5 軒ほどの菓子店で製造販売されていたが、現在では2軒になってしまった。また最近は少なくなったが、旧東海道の商店街には、「サッカー最中」の看板が多数見られた。それを当時藤枝に来た人たちは「サッカーさいちゅう」と呼び、さすがはサッカーのまち、サッカーをしている最中と勘違いしたというエピソードがたびたび聞かれる。

サッカーあめもあった。ソフトボール大の白黒ボールをあしらったプラスチック製の容器にあめが入ったもので、40 年代半ば過ぎまで市内菓子店などの店頭を飾っていた。

 

 

大会パンフレットで見る藤枝で開催された大会

昭和28年(1953年)─ 昭和62年(1987年)

大会パンフレットで見る藤枝で開催された大会
大会パンフレットで見る藤枝で開催された大会