サッカーのまち復活

更新日:2018年10月07日

昭和20年(1945)8月、太平洋戦争は多くの尊い犠牲の上に終わった。現在の藤枝市である藤枝、岡部地区でも2300人を越える戦死者を出した。太平洋戦争の激化により、それまで徴兵猶予を許されていた大学、高等学校、専門学校(すべて旧制)の学生たちも、戦地に行くことを余儀なくされ、多くの若者が戦場に散っていった。志太中出身でベルリンオリンピックで活躍した松永行も、ガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)で戦死した。

ユニフォームも、ボールも、靴もほとんど揃わない状況であったが、志太中では戦後まもなく蹴球部が復活し、昭和22年(1947)6月に始まった県スポーツ祭で優勝した。

昭和22年の学校教育法で六・三・三・四制の新しい学校制度が整えられ、志太中は新制高校となり、静岡県立志太高等学校、静岡県立藤枝高等学校と校名を変え、昭和27年から静岡県立藤枝東高等学校となった。また、新制中学が発足し、藤枝中学校や西益津中学校でもサッカーの指導が始まった。

藤枝の人々は待っていたかのように動き出した。静岡県蹴球協会(昭和13年創設)の活動が、昭和22年から再開されると、それに呼応するように、志太中1回生の鈴木六郎らが中心となり、志太中OBらによる志太サッカークラブ(志太クラブ)が結成され、同年11月に実施された第2回石川国体に出場した。昭和23年(1948)3月にはインドネシア留学生とWМW(早稲田ОBチーム)を招きリーグ戦を行っている。

昭和24年(1949)、同じく志太中1回生内田福治らにより、当時の藤枝町体育協会に蹴球部として加盟し、組織、体制が整ったことで戦後の藤枝サッカーの基礎ができた。29年の市制施行により藤枝市体育協会蹴球部となり、49年にサッカー部と名称変更する。

昭和27年(1952)1月13日、日本蹴球協会から電報が届いた。5月3、4、5、6日に全日本蹴球天皇杯争奪戦を藤枝町で開催することが決定した、というものである。第32回天皇杯全日本蹴球大会は、藤枝東高グラウンドを中心に開催され、成功に至った。今では元日に国立競技場で決勝戦が行われる、あの「天皇杯」である。もちろん、参加チームの数やレベルは、今とは比べものにならないが、まだ市制が敷かれる以前、人口1万5000人ほどの地方のまちで、全国レベルの大会を誘致するという、当時の関係者の意気込みはどれほどであっただろうか。地元の志太クラブも出場したことから大変な数の観客を集めた。

その後、第38回(昭和33年)、第41回(昭和36年)も藤枝で開催されたが、その41回大会直前にある事件が勃発していた。4月、当時市内で1社しかないタクシー会社で労働争議が始まり、タクシーが動かなくなった。折しも5月から天皇杯大会を開催することになっており、争議が長引いてタクシーが稼動しなかったら大変なことになる。しかし徹夜の交渉の末、開催日までに何とか解決し大会運営には事なきを得た。天皇杯大会、つまりサッカーが労働争議を早期解決させたことになる。この大会では古河電工と中央大学が決勝で対戦し、古河電工が優勝した。古河には宮本征勝、平木隆三、鎌田光夫、八重樫茂生、長沼 健といった後年のオリンピック選手に加え藤枝東高出身の橡尾健次(元日本代表)らが主力をなし、中央大学には渡邉昭夫(元日本代表)、海野 勇(元ユース日本代表)といった藤枝東高出身者がいた。その他の出場チームにも藤枝東高出身者が多く活躍していた。また全国から高校8チームによる招待試合が行われ、日本協会から招かれていたデットマール・クラマーが藤枝東高グラウンドで高校生の指導をしてくれた。