戦時下でもサッカーは続けられた

更新日:2018年10月07日

金融恐慌で始まる昭和の時代は、昭和20年(1945)の敗戦まで、まさに戦争の時代であり、日本は昭和16年(1941)にはアメリカなど連合国との戦争(太平洋戦争、日本では当時大東亜戦争の呼称)に突き進んでいく。このような状況で敵性スポーツは受難の中にあり、学校体育では国防競技と呼ばれた軍事色が強い競技が行われるようになった。各校には配属将校が常駐した。しかし、蹴球を開校以来の校技としてきた志太中では、その火は何とか保たれていたという。昭和15年7月18日紙面「静岡民友新聞」に興味深い記事がある。
 

蹴球で知られている県立志太中学では今月末県下の中等学校蹴球大会に出場すべく目下放課後猛練習している。今年は日本歯科医専蹴球部生徒十名が数日前より藤枝町魚安楼に合宿し午前中は単独にて午後は志太中蹴球部員と共に暑熱を蹴飛ばしている。


まだ太平洋戦争の戦時下ではないが、この頃にもはや学校名の前に”蹴球で知られている”と付けられていることは注目すべきであろう。

戦雲が重くのしかかる頃、志太中は昭和16年(1941)10月、明治神宮大会東海地区大会で優勝する。やがて戦況悪化の中、グラウンドは芋畑となり、生徒は軍需工場に勤労動員、物資は不足しボールも継ぎはぎだらけで活動は細々としたものとなったが、昭和17年(1942)、18年、静岡県下中等学校蹴球大会で優勝した。