藤枝サッカーの始まり─それは一人の若い校長の英断から始まった─

更新日:2018年10月07日

日本の競技スポーツは学校体育の中から始まった。この地域においても同様であった。

大正期、志太地域に県立中学校は未だ無く、中学校へ進学を希望する者は、静岡、掛川、榛原などへ遠距離通学するしかなかった。県立中学校の設立はこの地域の悲願であった。大正11年(1922)、志太郡下28町村長は緊急町村長会を開き、費用一切を地元で負担することで中学校設立を決議し、請願書を県に提出した。その後、設置場所をめぐり藤枝町、青島町、島田町は激しく対立することとなる。島田町には商業学校設置ということで折り合いがつくが、藤枝町 市部 いちべの 千南原 せんなんばら(現 天王町)に決定してからも、用地は藤枝駅近辺が当然と考えていた青島町は強く憤慨したという。

とはいえ、大正13年(1924)4月、さまざまな問題を乗り越え、静岡県立志太中学校、のちの藤枝東高等学校は開校した。初代校長として着任したのは44歳の 錦織兵三郎 ( にしごりひょうざぶろう ) であった。この錦織兵三郎こそ、この地にサッカーの種を蒔いた最初の人であった。錦織は着任すると、生徒の体育を重視するために運動競技として「蹴球」、すなわちサッカーを取り入れることを言明した。当時、学生スポーツとしては野球が最も盛んな時代であったため、多くの反対があったが、錦織は自らの信念で蹴球を全生徒に練習させることを決めた。「校技」蹴球の始まりである。しかしこの地の大部分の者が蹴球という言葉を初めて耳にしたわけで、どんな競技であるかほとんど知らない。蹴球部の初代部長となる浜松師範出身の山口秀三郎が競技の概略を説明し、実際の指導を行った。

なぜ錦織はこの新設校生徒全員に蹴球をさせることとしたのか。蹴球は他の競技と比べて運動量が豊富であること、ボール一つあれば多くの者が参加できることなどをあげている。

 

「運動競技の目的は体育の振興と精神作興の二方面である。時間浪費が少く比較的短時間にその目的を達成するものが望ましいので、当時行われていた競技、陸上・庭球・野球の長所を厳に考慮したうえ、特に精神作興をバックとしながら運動量・男性的進取の気性・連帯共同性および未発達競技の将来性への期待からサッカーを校技として奨励した。」と先生(錦織校長)は或る機会に述べられている。

「藤枝東高五十年史」-回顧と展望-松下芳夫 学校長 より

 

また錦織は、Association Footballという語のAssociation(共同とか連合といった意味)という言葉が好きで、それがア式蹴球、すなわちサッカーを取り入れた理由の一つであると述べたことがあったという。開校したばかりの志太中1回生の生徒たちはみな初めて接するこの競技に熱中し、日がな一つのボールを蹴りあった。石ころだらけの校庭を自分たちで整備し、竹と針金で手製のゴールを作った。専用の靴があるわけでもないので、まちの靴屋に蹴球靴らしきものを作ってもらった。「志太靴」と言ったそうである。学校側は当初は保護者に費用の心配をかけまいと、どんな靴でも良いと説明をしていたが、すぐ靴がダメになってしまう現実を目の当たりにする。サッカーシューズは輸入物で高価なため、見よう見まねで作ってもらったという。履き替えるのも面倒なのでこの靴を履いて通学した者も多かった。

大正15年(1926)、開校2年目の志太中に蹴球部が創設され、同年11月には浜松高等工業学校(静岡大学工学部の前身)主催の蹴球大会に初めて参戦する。その後は同大会の他、刈谷中学主催東海近県中等学校蹴球大会や東京文理科大主催全国中等学校蹴球大会などに出場、優勝を重ね、志太中蹴球部の強さは静岡県内外に知れわたった。

藤枝東高所蔵の古い資料の中に興味深いものがある。昭和8年(1933)、この年は志太中が浜高工大会に初優勝した年であり、静岡中(現静岡高)、浜松一中(現 浜松北高)、志太中による3校リーグ戦や県下蹴球大会も行われた。この県下蹴球大会の出場選手名簿に、各チームのユニフォームの色が記されている。庵原中(現 清水東)はシャツ・白青染分け、パンツ・白、志太中はシャツ・緑色、パンツ・白、富士中(現 富士高)はシャツパンツとも白、浜松師範はシャツ・白、ストッキング・赤黒線二本、浜松一中は記載なし、静岡中は袖口及び襟足ともにライトブルー、ストッキング・ダークブルー二本白線入り、静岡師範は上下とも白。現在とはだいぶ違うようである。

どこのまちでもありえることであるが、地区同士の対立というか、ムラ意識というか、そういうものが藤枝にも存在した。藤枝地区と隣接する西益津地区、瀬戸川をはさんで藤枝地区と青島地区などにあった対抗心である。仮に藤枝地区ではなく青島地区に志太中が設立されていたら、その後の情勢もかなり違うものとなっていたであろう。藤枝地区に志太中が開校されたことで、サッカーは瀬戸川以東の藤枝地区や西益津地区の局地的文化としてまず根を降ろすことになる。