朝比奈とお地蔵さま・朝比奈和紙

更新日:2018年10月08日

朝比奈川の支流笹川(ささがわ)はびく石の谷から流れている。この笹川の奥まったところに古いお地蔵様が里の人のあつい信仰を受けてまつられている。このお堂の入口にかけられている扁額(へんがく)に

ささ川のささの清水で身をきよめ まいる人には利益あるべし

とよまれた一首がある。

旧暦の六月十四日の縁日ともなれば、近隣より朝早くからおまいりする人が多勢あって山深い部落にも時ならぬにぎわいを見せる。昔は舞いの奉納(ほうのう)もあったと伝えられ、神仏の守護をおしえ、信仰心を強めさせたものであろう。

お地蔵様の由来(ゆらい)は伝承(でんしょう)にもとづくと六百有余年にさかのぼる。

後醍醐(ごだいご)天皇の御代の頃である。戦乱が各地に起こり、その度に武士が転戦し、京の都を中心に東は奥州、西は九州にまで及んだ。この戦乱のさ中に笹川の中に一族をつれておちのびてきたが、その一族が守護神として地蔵尊をまつった。水清く和紙の原料の楮(こうぞ)、みつまたの木も山野に多く、吉野紙(よしのがみ)の手法をこの土地で再現して朝比奈紙をすいた。また、この付近に「落人(おちゅうど)だん」と呼ばれているところもある。

宮島のうしろには「城山」と名づけられた山がある。眺望周囲を見おろす絶景であり、落人だんに住む人達の見はり台とも思われる。

話が前にさかのぼるが、笹川の地蔵堂を人よんで「武祖堂(ぶそどう)」といっている。一説には、武神が主神であって十四人の祖神(そしん)がまつられたとも伝えられている。ある年に土砂崩れがあって大きな地形変動が生じ、その時十四の五輪塔(ごりんのとう)が現われた。そして、住民の守護をしたので信仰を厚くしたとも言われる。

今ははっきりとした言い伝えも残っていないのはさびしい限りである。地蔵堂は明治の末期まで堂守りとして住んだ勝覚法師(しょうかくほうし)の石塔と共に里人にあがめまつられている。


「岡部のむかし話」(平成10年・旧岡部町教育委員会発行)より転載

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