強い!! 高校サッカー

更新日:2018年10月08日

静岡新聞(昭和40年11月29日)

高校サッカーの人気は、正月に行われる全国高校選手権大会が、首都圏開催になった昭和50年初めを境に一気に高まった。準決勝、決勝が国立競技場で行われることから、「国立」を目ざすことが合言葉になった。それ以前の大会は、大阪の西宮球技場や長居競技場で行われており、人気の高かった高校野球とは比べるまでもないほど全国的には地味な扱いだった。

しかしこの大会の歴史は古く、大正7年(1918)、大阪毎日新聞社主催の「日本フートボール大会・ア式の部」として始まっている。甲子園球場が会場となった時代もあり、大正15年、「全国中等学校蹴球大会」と改められ、さらに戦後の学制改革により、高校選手権大会となった。

昭和31年(1956)の第34回大会から連続出場していた藤枝東高は、毎年のように優勝候補と言われながら、なかなか決勝まで進出することができなかった。当時は何と言っても、浦和勢(浦和、浦和西、浦和市立)の最盛期であった。しかし、昭和37年度(1962)の第41回大会で浦和市立高を破り、藤枝東高はついに念願の初優勝を果たすことができた。選手が手にした優勝カップの中に涙がぽたぽた落ちて困ったと聞く。―藤枝東高初優勝、王国静岡の幕開け―『激動の昭和スポーツ史9サッカー』(ベースボールマガジン社)にはそう記されている。のちにサッカー王国静岡と称される原点は、まさにこの初優勝にあったと言える。翌年の42回大会も勝ち抜き、今まで勝てなかったことがうそのような連続優勝であった。

当時の藤枝東高がモデルとなって、『少年ジャンプ』に連載された(「ザ・キッカー」望月三起也作)ほどである。藤枝東は国枝東となっていた。浦和南をモデルとした「赤き血のイレブン」(梶原一騎作『少年キング』連載)と並んで、サッカー漫画のはしりであった。また藤枝東は藤田東の校名で「シュート!」(大島司作『少年マガジン』に1990年から2003年まで連載)にも登場する。

藤枝東高の11年連続選手権出場を藤枝北高がさえぎり、昭和40年度の第44回大会に初出場した。藤枝北高サッカー部創設は昭和28年であるから、短期間に力をつけてきたことがうかがわれる。藤枝の高校サッカーは、この2校がお互いよきライバルとなって競い合い、育ってきたとも言える。

昭和41年度全国高等学校蹴球選手権大会優勝トロフィー

翌昭和41年度は、高校サッカー史上、最強のチームを生むこととなる。昭和35年頃より高体連はあらゆる高校生の競技を統合し、全国高校総合体育大会と称して、同時に同じ場所で開催することを計画し、サッカーも昭和41年の青森大会から加わることとなった。しかし文部省通達で、高校生の全国大会は国体を除き年一回とされていたことから、冬に行われる全国高校選手権大会は、日本サッカー協会が単独で主催となり、しばらく大会の回数を公式に数えないで年度で表されることになった。青森県で開催された初めての高校総体サッカー大会は藤枝東高が出場した。前年度の不本意な思いをぶつけるような勢いで無失点で優勝を飾る。昭和41年当時、東海道新幹線は開通していたが、交通網の整備はまだまだで、応援団や保護者はバスで24時間かけて青森まで駆けつけた。藤枝東高の快進撃は止まらなかった。秋に大分県で開催された国体で優勝、さらに冬の高校選手権大会にも優勝、高校生のタイトルを総なめし戦後初の高校三冠に輝いた。練習試合を含めても一度も負けたことのない”77戦無敗”というチームだった。ただ、選手権では圧倒的に攻めながらも秋田商と引き分け、両校優勝であったため、試合終了の瞬間は負けた、という思いであったという。藤枝駅頭で行われた選手権優勝報告会の選手の表情には、うれしさよりも悔しさが表れていた。このチームのキャプテンは松永 章。のちに日本リーグの日立に在籍し、ヤンマーの釜本邦茂と得点王を幾度も競った。

藤枝東高は昭和46年度、徳島での高校総体に優勝するが、47年度、48年度の高校選手権で2年続けて準優勝となる。いずれも微妙なオフサイド判定が勝敗を分けた試合であった。48年度決勝の北陽高(大阪・現 関西大学北陽高)戦では、藤枝東高選手の誰がオフサイドの位置にいたか疑問が残り、物議を醸した。オフサイドとされたため得点とならなかった「幻のゴール」がその後も長く語り伝えられた決勝戦だった。

藤枝東高が高校サッカーの強豪校として名を全国に知らしめるようになったのには、一人の指導者の存在がある。昭和32年の静岡国体後、小宮山宏に代わって藤枝東高の監督となった長池実である。長池は東京都練馬区出身の国語教師。静岡高を経て、昭和33年に赴任。

長池は昭和44年(1969)7月から3ヶ月間、千葉県検見川の東京大学グラウンドで、デットマール・クラマーの第1回FIFAコーチング・スクールを受講した。東京、メキシコオリンピックで成果を上げ、サッカーに対する認知度が高まってきたとはいえ、日本国内には指導者が絶対的に不足していた。日本リーグの創設とともにクラマーの改革のひとつに世界に通用するコーチの育成があった。このコーチング・スクールにはアジアの12 ヶ国42人、日本からは長池を含め加茂 周、上田亮三郎ら12人が参加した。藤枝に戻った長池の指導は大きく変わったといわれる。その成果を藤枝東高のためだけでなく、高校サッカー全体、そして小中学生にも惜しげなく伝えていった。