西住笠懸けの松

更新日:2018年10月08日

(イラスト)西住笠懸けの松

静岡行バスが岡部北口を過ぎて宇津ノ谷峠に向う途中の河原町(かわらまち)・岩鼻山(いわはなやま)の上にかなり年数のたった松が二本。バスの窓からも見えるが一本は枯れはじめてきたので二世の松を植えなおしてある。この松の根もとに古びた西住法師(さいじゅうほうし)の墓が立っている。

西住法師は西行(さいぎょう)法師の仏弟子で諸国雲水(しょこくうんすい)の旅を続けているうちに病気になり、岡部の野辺の露と消えたのである。

人も知る西行法師は、もと佐藤憲清(のりきよ)といい鳥羽上皇に仕えていた身分のある北面の武士であったが、明日の命もわからない世の無常に嘆きを感じて仏門に入った。家来の中の一人も出家して西行の弟子となり西住と名のって、この世はおろか未来冥(めい)土の旅まで共にしたいと願った。

西行と西住の二人は東国(とうごく)の旅に出て遠州の国に入り、すりへったぞうりに竹の杖(つえ)で天竜川の渡し場に来た。舟は対岸へ渡る旅人でいっぱいになり座れずにいる人も多かった。この中にやはり立ったまま乗っていた幾人づれかの武士が西行らに向って命令するようにいった。

「お前たちおりろ」

「いや愚僧(ぐそう)らも渡し賃(ちん)を払(はら)って乗ったのだから、お互いに詰め合わせて戴きたい…」

続けて何かいおうとしたら

「何を!」

と武士の一人がむちで西行の顔をしたたかに打った。

「あ!」

西行は顔を両手で押さえ、うずくまって痛さをこらえているうちに、打ち方が強かったのか指の間から血が流れて衣を朱色(しゅいろ)に染めた。しかし、そうされても、西行はぐっと痛さに耐えているだけで少しも怒らなかった。そうして静かに舟を下りていった。その時までそばにいて、どうなることかと師の西行の身を案じていた弟子の西住は、もうがまんがならぬと憤然として立ち、

「何を無体(むたい)なことをするか!」

と持っていた杖でその武士の顔をなぐった。もともと京で鍛えた武士の腕前、それに加えて怒って一撃必殺の気合をこめて打ったのだからたまらない。その男はよろめいて危く川に落ちようとするところを仲間に支えられた。しかしとても立ち向える相手ではないと見て舟をとびおりて一目散(いちもくさん)に川原を逃げていった。

「逃げるのか!」

となおも追おうとする西住へ渡し場にいた大勢の人足たちが走り寄ってきて

「ここでけんかをしてはいかん。渡し場でのけんかは御法度(ごはっと)(規則を破ること)だ」
と口々に叫んでとめたので、さしもの西住は追うのを思いとどまった。


様子をだまって見ていた師の西行は、もう打たれることがないと戻ってきた武士たちへ向って

「弟子がご無礼をはたらいて誠にもうしわけございません。お許し願いたい」
と、ていねいにあやまった。武士たちは西行が普通の者ではない顔付きとおだやかな物腰に、今までのいきさつをすてて、

「いや、こちらが先に無礼を致したのでこちらこそ申しわけない」

とわびて舟にのって去った。
西行と西住の二人は岸にたたずんだまま、離れていく舟を見送っていたが、しばらくたってから西行は西住に向い、

「私は出家してから、人からどんなに悪くいわれたり邪魔(じゃま)されたりしても少しも気にかけず、今日のことよりもさらにひどいはずかしめを受けても、耐えしのんで行くよう心掛けて来た。少しばかりの怒りに自分を忘れてしまうような先ほどのお前の考えの浅い振る舞い、あれではとうてい今後いっしょに歩くわけに行かない。お前はここで私と別れて京都に帰るがよい」

といった。西住は膝をかがめ手をついて西行の言葉を聞いてしばらくは黙っていたが、顔をあげて
「師のお言葉であれば背(そむ)くわけにはまいりません。が、しかし、あの時は師の辱(はずかし)めを目の前にして、手をこまねいて見ていることができず、ついはやまったことをしてしまいました。今ここで師に見はなされ、修行の途中におめおめと郷里に帰ればどの顔さげて皆にあえましょう。どうか今日のところはお許し下さって今まで通りお供をさせて下さい。お願いでございます」

涙の顔を幾度も地面にすりつけて頼んだ。

「お前の人となりはよく判っている。そういう心根がかわいそうなことだと充分心得ている。しかし今日のことをよく考えてみよう。もしあの時あの相手を殺してしまったらどういうことになっただろう。人に対するいつくしみやはずかしめに耐えることは、み仏に仕える者の何よりも第一に心がけるべきこと。たとえその顔につばを掛けられたとしても恥とすべきではない。今お前をつれていけば人々は私たちを何というであろう。これ以上何も言うことはない」

西行にいわれて見ればまことにごもっともな話でかえす言葉もないが、そうかといってここで別れなければならないことは何とも悲しいむごいことであろうかと、はらわたをしぼる思いで声もなく、涙の目で西行の姿を見あげるだけであった。

西行は筆をとり出してそばにあった西住の笠に

「我身(わがみ)命(いのち)を惜(お)しまず、ただ惜しむ無上道(むじょうどう)」

と書いて西住にわたし、ひとりで静かに渡し場に歩いて行き、次の渡し船で向う岸へ渡っていった。

この渡し場の近くの池田村に池田(いけだ)の長者(ちょうじゃ)という徳望(とくぼう)の高い人が居た。ちょうど用事があって通りかかり、騒ぎを聞きつけて川原に来てみた。時刻は既に日の入り近くで向う岸には夕ごはんの煙がたなびいていた。その日の渡し船は終りになって川岸には船頭たちの姿も見えず、広い川原には西住がひとり座っているだけであった。渡し場にいた人たちは何といって慰(なぐさ)めになるのか見当もつかず困っていた。そこへ長者が近づいて来て、西住からようすを聞いて、胸の底から深いため息をもらした。

「師の難儀(なんぎ)を目の前にして、あなたのとった行いはあたり前の人情、師のお仕打ちが少し無理ではなかろうか」

「あなたのおっしゃる言葉ではありますが、私は師弟となるまでは主人の家来であって、そのご恩を受けて年久しく、その間一度もさからったことはありませんでした。なのにこんな結果になろうとは……、私の命ももうこれまでか……、人の家来として主人の命令に背き、弟子となって師の教えにも反し、今師に見捨てられては死ぬよりほかに道はありません」

あとは自分に言い聞かせるように、なかば独(ひと)り言(ごと)を言いながら肌着(はだぎ)を脱(ぬ)ぎ自決(じけつ)しようとしかかった。長者はあわてて押しとどめ、

「待って下さい。それでは恨(うら)みを抱いて死ぬことと同じになります。それよりは今後も修行(しゅぎょう)を積みながら師のあとを追ってそのお許しを願うのが本当の道ではありませんか」

「なるほど、あなたのおっしゃる通りです」

西住は、心から悟(さと)り身なりをきちんとして立ち上がった。もう夜になるので私の家にお泊まり下さいという長者の親切(しんせつ)を受けて長者の家にお世話になった。

翌日、西住が長者の家を去る時長者の家の人々も別れを惜(お)しんで、途中まで送った。西住は杖をたよりに修行を続けるため東に向って歩きはじめた。小夜(さよ)の中山峠の上りにかかった時、道の脇の木の切り株に腰をかけて休んだ。足の疲れのためばかりではなく、頭に重くのしかかっている心配事を休めるためだった。休みながらあれこれと思いをめぐらしているうちに、何かしら少しはほのぼのとした明るい考えに思い当って、それに勇気づけられてまた歩き出した。大井川を渡るときに体をぬらしたために冷えこんで島田の宿(しゅく)では幾日か床(とこ)についたりした。歩いては休み、歩いては休み、休みから休みの間の距離がだんだん短くなり、岡部の宿に来た時はもうすっかり弱ってしまって立ち上がるのがやっとの思いであった。

たいそう疲れたから街道を少し外れた所でゆっくり休んで行こうと思って、少し山道をのぼったところの松の木の根もとに腰をおろした。そこは予想もしなかった西住の永遠(えいえん)の休み場所となったのである。腰をおろしたらもう水を求めに行く力もなく、飲まず食わずで二日を過ごし、眼をつぶったまま横になっていた。たまたま通りかかりの木こりが西住の姿を見つけて近づき、まだ死んでないことを確(たしか)めて山道を走り下って村人に知らせた。村人は多勢でいろいろ支度をして西住のそばに集まり、やわらかく煮(に)たおかゆや気付け薬を飲ませようと試みたが、もうのどに通らず、少しばかりの水を一口うまそうに飲んで感謝するかのように軽くうなづいて息が絶えた。野辺(のべ)の送りの支度をしながらそばの松に掛けてあった笠を手にとってみると、


西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して

と書いてあった。

「かわいそうに、このお坊さんは助からないと覚悟をしてこの世に別れの歌をよんでいたのだ」

村人は鼻をすすりながら話し合った。松の根もとに西住を手厚くほうむり、金を出しあって五輪(ごりん)の塔(とう)を建てた。

それから幾月たった頃だろうか、一人の僧がこの岡部の宿(しゅく)を通って一晩の宿(やど)を求めた。宿の人から「西から来た坊さんが、この岩鼻山で行き倒れとなって死んだのでとむらった」という話を聞き、近くの農家に残された遺物(いぶつ)の笠を見せてもらい、それが間違いもなく弟子の西住のものであると知って驚いた。この僧はほかでもなく西行であった。そこではじめて西住が自分の跡(あと)を追って来たのを知ったわけである。

村人に教えられて岩鼻山の墓(はか)におまいりし、涙ながらに歌をよんだ。


笠ありてみのいかにしてなかるらん あわれはかなき天が下とは


もろともに眺め眺めて秋の月 ひとりにならんことぞ悲しき


西行は決して西住を心から捨てたのではなかった。
西住法師の臨終(りんじゅう)の様子に強く感じた西行の友人の寂然法師(じゃくねんほうし)は西行に歌を送った。


乱れずと終り聞くこそうれしけれ さても別れはなぐさまねども


寂然法師の歌に西行はこう歌を返して送った。


この世にてまた逢うまじき悲しさに すすめし人ぞ心乱れし


深い道理(どうり)を教えたけれど、情熱と道理とはどちらが重いのだろうか自分にはもう何が何だか判らなくなってしまった……という意味がこめられているようである。

後に西行が鎌倉に行き鶴ヶ岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に参拝していると、源(みなもと)の大将軍頼朝(よりとも)の行列にあったので鳥居(とりい)の脇に控えた。姿はみすぼらしいけれど身にそなわった気品はかくすことができない。梶原景季に理由(わけ)を言って身分を調べるとそれが西行であった。将軍に呼び出されて、弓矢のことから和歌のことまで興味深く問い答えている話の中に西住法師のこともでた。将軍頼朝は西住の様子に感動し、これこそ節義(せつぎ)・徳性(とくせい)・世の模範(もはん)とすべきだと激賞したという。

西住をとむらった時に植えた松は三十年前に落雷で枯れたので代りを植えた。

町人はこの松を「西住笠懸けの松」と呼んで昔の悲しい物語をしのんだという。

 

「岡部のむかし話」(平成10年・旧岡部町教育委員会発行)より転載
 

(写真)今は無い「西住笠懸けの松」

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